
私の母は教師として働いていたので、
私が生まれた時から中学一年まで
私と姉を見てくれ、家事をしてくれる人が通いでいた。
私たちを鍵っ子にしたくないという気持ちが母にあったらしい。
私が小学校低学年から中一まで来てくれた人は、
石塚さんといい、
とてもソフトで博識で、
きつい母にはない優しさがあり
学校から帰ってくるのが楽しみなくらいだった。
石塚さんは家からバスで20分くらいのところに住んでいて、
東京都の水道局だったかに勤める旦那さんがいた。
夏休みは母が家にいるので
石塚さんはお休みだったけれど、
そんな1日、彼女の家に姉と遊びに行くことになった。
小学生の私は姉と二人だけでバスに乗ること自体
ワクワクだったなあ。
団地住まいで、壁にかかったキリストの絵
(旦那さんはギリシャ正教のクリスチャンだったらしい)が
印象的な、すっきりとシンプルで
清々しい家だったのを覚えている。
石塚さんの旦那さんは、
あまり表情がなくぶっきらぼうに見えたけれど、
にっこり笑うと
とても優しい雰囲気がにじみ出てきて、
このおじさん、私は好きだ!と思った。
料理が上手でその日も私たちのために
お寿司を握ってくれていた。
そしてゲーム(コンピュータゲームじゃないよ)が大好きで、
小学校低学年の私に麻雀や花札まで教えてくれた。
しばらく遊ぶと
引き出しからトランプを出してきて、
「これはね、おじさんが戦争に行った時、
数年かけて自分で手作りしたものだよ。
周りに気づかれないように、
このトランプで占いをしたり、
一人遊びをして気を紛らわせたんだ。」
と言った。
はっきりとは覚えていないけれど、
ボロボロで黄ばんでいて、
でもちゃんと色つきの絵も
書かれていたような気がする。
そして一言
「戦争は本当に嫌だよ。」
とつぶやいた。
私がもう少し大きくなってから
石塚さんが話してくれたけれど、
旦那さんは、第二次大戦中、
東南アジア(またはニューギニアだったかも)の激戦地での
日本軍のわずかな生き残りの一人だったらしい。
東京の医者の息子で、
徴兵される前は、
早稲田大学のラグビー部に所属していたというから、
当時としてはモダンで溌剌とした人だったのだろう。
奇跡的に日本に戻ってきてからは、
出世するとか何かを成し遂げるとか
そういう気持ちを全く持たず、
亡くなった戦友のために祈りを捧げつつ
淡々と生きる日々。
ひっそりと暮らす人なのよ、と石塚さんは話してくれた。
私は子供心に、
手作りの黄ばんだトランプが強烈に目に焼き付き、
暗闇の中でわずかな光を頼りに、
誰にもわからないように
一人で占いをするおじさんの姿が浮かんだ。
顔や軍服は薄汚れ、
絶望的な状況の中で自分でするエンターテイメント。
なんだか切なく怖かった。
石塚さんも戦争経験者で、
私たちにいろいろな話をしてくれた。
「大空襲で焼け野原となった東京で、
唯一の道しるべになったのは焼け残った線路。
それをつたって位置を確認しながら
トボトボ歩いたの。
本当に全て焼けてしまって、何も残っていなかったの。
目の前で多くの人が亡くなったのよ。
小夜子ちゃん、戦争は悲惨よ。
絶対、2度とああいうことをしてはいけないの。」
石塚さんは、ちょうど私の娘が生まれてすぐ、
手遅れの癌でホスピスで亡くなった。
そのちょっと前に
アメリカに住む私にくれた達筆な手紙は今でもとってある。
猫好きだった私の
小学校高学年の時の誕生日に
七宝焼の猫のネックレスをくれて、
一部が欠けたそのネックレスと手紙は処分する気になれず、
引っ越し人生の間、ずっと持ち歩いてきたものの一つ。
今日は終戦記念日。
この日が来ると、私はこの石塚さん夫婦を思い出し
ちょっと込み上げてくるものがあるのです。
合掌。
『ライトワーカーとしての覚醒をサポートいたします』
→ ライトワーカー無料診断
→ ライトワーカー講座
涙が出るね
小夜子さんと出会うべきして出会って
今の時代、どれほどの人が心から戦争のない今を有り難く思えるのかな
もっと多くの人が自分の欲の傷みではなく、本当の思いやりに満ちた心の傷みに気がついて欲しいです。
貴重な、お話を有り難う
今ある命と、今までを繋いでくれた全ての人や存在に限りない感謝を捧げます。
戦争を経験した人に「今の状況?戦争に比べたら、こんなの何でもないよ」って笑われてしまうかも。
今こうして平和な時代にいられることに感謝です。